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不思議の館
易占いの概要 易占いの実際
占断例 的中率を上げるには
占いに感じること
まえがきに代えて
このページでは、占いと不思議にまつわる話、とりわけ易占いに関して思うことを書いています。
僕自身、易のリーダとして優れたところはありませんが、易について何かしらお教えできることがあると思い、書いてみました。
易占いの概要
易、というと、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか? うらぶれた商店街の片隅で易者が筮竹(ぜいちく)を振る姿でしょうか。それとも「当たるも八卦、当たらぬも八卦」「乾坤一擲(けんこんいってき)」といった言い回しでしょうか。
易の世界はあまりに遠大で、僕にはとうてい語りつくす技量もありません。詳しい話は参考書がいくらも出ていますのでそちらに譲るとして、ごくごく初歩的な話をします。
易は古代中国の生んだ英知で、この世のすべてを陰と陽の2つに分けて説明しようという「陰陽説」がその起源となっています。易といえば占いと思われがちですが、その経典である「易経」は四書五経のうち五経の筆頭にあげられているように、知識人が必ず勉強すべき書物であり、占いの経典というより思想書、哲学書の色彩が濃いものです。古来、多くの人物が研究し、さまざまな著作が残されています。孔子も中年以降、易の研究を始め(たと言われ)ています。
●爻(こう)と八卦
「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉があるように、易の基本は八卦です。八卦とは、陰陽の爻を3つ重ねたものです。爻というのは、陽なるものを表す横1本線の「陽爻」と、陰なるものを表す横1本線の真中が途切れた形の「陰爻」の2種類からなります。
そして陽爻または陰爻が、下から順に、
・陽爻、陽爻、陽爻の順で並んだものを「乾(けん)」
・陽爻、陽爻、陰爻の順で並んだものを「兌(だ)」
・陽爻、陰爻、陽爻の順で並んだものを「離(り)」
・陽爻、陰爻、陰爻の順で並んだものを「震(しん)」
・陰爻、陽爻、陽爻の順で並んだものを「巽(そん)」
・陰爻、陽爻、陰爻の順で並んだものを「坎(かん)」
・陰爻、陰爻、陽爻の順で並んだものを「艮(ごん)」
・陰爻、陰爻、陰爻の順で並んだものを「坤(こん)」
と呼び、これがすなわち八卦です。詳しくは八卦表をご覧ください。これらはまた、それぞれが天、沢、火、雷、風、水、山、地を表していると言われており、ここがイマジネーションの原点となります。
たとえば「震」の卦は「雷」ですから、にぎやかなもの、騒がしいもの、晴天の霹靂、誕生、ものごとの始まり、電気、機械、自動車、長男といったものが連想されます。
八卦は中国の伝説の帝王であるいわゆる三皇のひとり、人面牛身の伏羲(ふっき)氏が考えたものとされています。今から5000年くらい前の人(?)で、おそらくシャーマンであったと考えられています。
●太極から八卦へ
陰陽の爻を3つ重ねて八卦ができることはわかりましたが、ではなぜ重ねるのは3つなのでしょうか。2つや4つではいけないのでしょうか? 易経の繋辞上伝の
「易に太極あり、これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」
という言葉がこれを説明しています。
まずいっさいが未分化な太極という混沌の状態があり、そこから両儀(=陰陽)が生じ、そのうち陽からは老陽(陽を2つ重ねたもの)と少陽(陽の上に陰を重ねたもの)、陰からは少陰(陰の上に陽を重ねたもの)と老陰(陰を2つ重ねたもの)の4つが生じます。そしてそこで留まることなく、おのおのの四象の上にさらに陰陽の爻が重ねられ、老陽からは乾と兌、少陽からは離と震、少陰からは巽と坎、老陰からは艮と坤が生まれます。

3段階の変化すなわち八卦をもって完成とする理由は、天地人の三才をもって万物を包摂しいっさいの現象を説明できるいうことらしいです。何の本で読んだか忘れましたが、ものの根元を説明するのに西洋ではもっぱら(1を除く)最小の奇数と偶数との積である2×3=6が基本になっているのに(6は最小の完全数でもある)、東洋は23=8が基本になっているところがきわめて特徴的である、と書かれていました。たしかに西洋占星術は12星座をはじめ6の倍数が基調となっていますし(古代エジプトでは8星座であったようですが)、東洋では九星で五黄土星を真ん中に周囲に8つの星が並んでいるなどです。
この話をするといつも思い出す一節があります。老子の第四十二章の
「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負うて陽を抱く。」
という言葉です。この言葉は世界の根源で本来はひとつである「道」から万物が生まれる課程を示したものとされていますが、老子の中でも解釈が難しい言葉として知られています。一は道の代名詞として他の章にもときどき出てきますが、二とか三という課程は老子全八十一章の中でもここでしか現れないからです。
前の易経の繋辞上伝の言葉と重ねてみると、なんだか道(太極=20)は一(両儀=21)を生じ、一は二(四象=22)を生じ、二は三(八卦=23)を生じ、三は万物を生ず、と言っているようにみえませんか? これらの言葉の間にはとくに関係はないと思いますが、冪(べき)乗の考え方を取り入れてみると急に密接に見えてくるのがユーモラスです。とはいえ、この論法をこのまま老子に当てはめることはできないと考えます。「一」が「道」と同義であればやはり「一」はひとつであり両儀すなわち陰陽にあてはまるはずはないからです。ただ専門家の間でもこの節の「一」「二」「三」の解釈は分かれており、必ずしも定義は定まっていませんので、上記のような空想もアリかな、と思っています。この話には続きがありますがこの項との関係が薄いので別の機会にどこかで書こうと思います。
●八卦と六十四卦
八卦だけでも占えるのですが、世の中の複雑な事象を表現するにはちょっと足りません。そこで八卦を2つ連ねた64通りの卦、すなわち六十四卦をもって占うことが広く行なわれています。これら六十四卦にはそれぞれ名称と順位がついていて、たとえば「乾」を2つ重ねた卦、つまり6つの爻がすべて陽爻からなる卦は「天(てん)」といって六十四卦の最初に置かれ、「離」を「坎」の上に重ねた卦、つまり下から陰陽陰陽陰陽の順に爻が並んでいる卦は「未済(びせい)」といって最後に置かれています。これを記憶の便宜のため、「乾為天(けんいてん)」、「火水未済(かすいびせい)」などと呼ぶことも多いです。つまり、「乾為天」は乾の卦が2つ重なってできているという意味であり、「火水未済」は「離」すなわち「火」が「坎」すなわち「水」の上に乗ってできているいうわけです。ここで、上に乗っている「離」を外卦、下でふんばっている「坎」を内卦と呼びます。六十四卦はすべてこのどちらかの方式で名前がつけられています。詳しくは六十四卦表を参照してください。
六十四卦の中には同じ読みの組み合わせがいくつかあり紛らわしさを解消できること、また八卦と六十四卦の区別もつけやすいことなどから、このコーナでもこのように呼ぶことにします。
六十四卦にはそれぞれ意味があります。その意味は、卦の名前からある程度は類推しうるものです。周の文王・周公の親子が考えたとの伝承があります。いずれも紀元前11世紀ごろの人です。
●爻の意味
六十四卦には、それぞれ6つの爻があります。爻は位置によって意味があります。
・初爻は、もっともベースになるもの。人体では足、会社では一般社員、国家では国民といったものを意味する。
・二爻は、初爻をまとめるもの。人体では股、会社では主任・係長、国家では市長や都道府県知事。
・三爻は、二爻の上に立ち、上との連絡に当たるもの。人体では腰、会社では課長・部長、国家では国会議員。
・四爻は、五爻と下の三爻をつなぐパイプ役。人体では腹、会社では役員、国家では閣僚。
・五爻は、すべてを統括する中枢。人体では胸、会社では社長、国家では総理大臣。
・上爻は、五爻の上にあり、第一線からは退いているが、シンボル的で広範な影響を持つもの。人体では頭部、会社では会長、国家では首長。
また、六十四卦のそれぞれの爻にも、独立した意味があり、つまり爻には全部で64×6=384通りの意味があることになります。これらの爻のそれぞれの意味については、説明が非常に長くなるうえ、僕の技量をはるかに超えていますので、説明は省かせていただきます。
易占いの実際
●僕の占い方の紹介
易は本来、50本の筮竹を使って占います。その占い方には、本筮法(ほんぜいほう)、中筮法(ちゅうぜいほう)、三変略筮法(さんぺんりゃくぜいほう)、などといった伝統的な占い方をはじめ、いくつもの亜流があります。
この中で本筮法はもっとも正統な占い方ですが、結果を得るまでのステップが非常に煩雑でかつ時間もかかるので、そのためほとんど行なわれていません。
僕が好んで多用しているのは、中筮法をベースにしたもので、おもにコインを使います。これを擲銭法(てきせんほう)と言うようです。以前は8面体のサイコロを使って三変略筮法で占ったこともありますが、どうも意味の広がりに欠けるような気がして、最近はほとんど使っていません。
コインの中でも、とりわけ僕は一円玉を使って占うのですが、その理由は次の3つです。
・入手しやすいし、財布の中にいつでもある。
・カードなどと違い、もし他の人に見られても、占いをしているとは見破られにくい。
・扁平なのでサイコロのようにどこまでも転がっていくことはないし、軽くて小さいので、容易にひっくり返る。
最後の項のの「容易にひっくり返る」というのはとても重要なことで、「見えざる意志」が入り込む余地を拡大します。筮竹が軽くて数が多く、ちょっと持っただけでは本数を確認できないのと同じ理由です。
コインはあまりに身近にあり過ぎて、筮竹やタロ(タロットカード)のように高尚さを感じさせる道具ではありません。こんなもので占いができるのか、してもいいのかという方もおられるかもしれませんが、僕は「見えざる意志」は何にでも宿りうると思っています。大切なのは、ここに意志が降りてくるのを信じることです。
●占いの実際
僕が取っている方法をご紹介しましょう。
コインを3枚手に取り、両手の中でしばらく振ります。それから机の上などの適当な広さがある場所に放ります。当然、算用数字の「1」の書いてある面が0~3枚現れるはずです。ここで定義の仕方はいろいろあるでしょうが、僕は表に出ている「1」を合計した数が偶数なら「陽」、奇数なら「陰」、全部が同じ面を見せたら「変化あり」、そうでなければ「変化なし」とします。つまり、「1」を合計した数が0~3で次のように解釈されます。
・3…本卦が陽爻で之卦が陰爻
・2…本卦が陰爻で之卦が陰爻
・1…本卦が陽爻で之卦が陽爻
・0…本卦が陰爻で之卦が陽爻
以上の操作を6回繰り返せば、いちばん下の初爻(しょこう)からいちばん上の上爻(じょうこう)までがすべて決定し、本卦(ほんか)と之卦(しか、ゆくか)という2つの卦が確定します。なお1と2以外の結果が出なければ、爻の変化が起きないので之卦はなく、本卦のみ決定します。
たとえば今、コインを6回振って、出た「1」の合計が順に1、1、3、0、0、1だったとすると、本卦は「陽陽陽陰陰陽」で「山天大畜(さんてんたいちく)」、之卦が「陽陽陰陽陽陽」で「天沢履(てんたくり)」の卦となります。「大きく蓄える」から「履行する」への変化ですから、財産を運用する、創作活動に入るなどの解釈が一般的には成り立つと思います。
本卦と之卦について補足しますが、ものの本によれば本卦は原因で之卦は結果とか、本卦は現在で之卦は未来とか、いろいろなことが書かれていますが、僕はあまりこだわらないことにしています。後に述べる「過去の占断(せんだん)例」を見てもおわかりと思いますが、これらはペアで一体不可分の関係であり、いずれを無視しても占いは成り立たないのです。そのため僕は、本卦は現在までに把握された事情で之卦は裏の事情とか、本音と建前とか、状況とイマジネーションのおもむくまま、さまざまな解釈を行なうことにしています。之卦がない場合は、本卦だけでことの本質が表現できており、問題の解決が可能なものと考えています。
過去の占断例
●過去の占断例
僕がこれまで易を立てた中で、もっとも興味深い例を1つ、ご紹介しましょう。
当時僕は電車通勤していたのですが、ある朝、会社へ行こうと玄関で靴を履いていたら、定期入れがないのに気がつきました。7時43分までに家を出ないと電車に間に合わないのですが、腕時計の針はすでに7時40分にかかろうとしています。3分で定期券を探し出さないと、遅刻してしまいます。
僕は平生から物をそこここに置き忘れてしまう癖があり、定期券なども家のどこかにあるには違いないのですが、さっぱり記憶にありません。しかも、隅々まで探している時間はないのです。
とっさに僕はコインを取り出し、上の方法で易を立てました。すると、「1」の合計が順に2、1、1、2、2、0となりました。これで本卦が「地風升(ちふうしょう)」、之卦が「山風蠱(さんふうこ)」と確定しました。
これを果たしてどう解釈するか。僕はまず、之卦の「蠱」という言葉に注目しました。蠱惑(こわく)という言葉がありますが、魅惑と似たような意味で、引きつけることを意味しますから、場所さえわかれば定期入れは見つかるでしょう。次に場所です。これは本卦の「升」がヒントを与えてくれます。「升」は「昇」という字と同じで、上に昇る意味があります。そして僕の家は2階建てです。となれば、1階の食堂や洗面台の付近ではなく、2階の自分の部屋を探すというのが無理のない解釈でしょう。
最後に探し方です。僕の部屋は散らかっていて、あちこちひっくり返していては時間のロスです。一発で見つけるにはどうしたらよいか。これには、上爻が答えをくれました。本卦と之卦を比べて唯一違う点、それは上爻が陰から陽に変化している点です。これは無から有、すなわち定期入れが現れることです。そして、あらためてこれらの卦を比較してみると、まるで書類の山のいちばん上をひっくり返すと定期入れが現れるように見えるではありませんか。
僕はこれだけのことを推理すると、一目散に2階の自分の部屋に上がっていって、電子ピアノの椅子の上にあった紙の山を上から順にめくってみました。案の定、定期入れは上から2、3枚目の紙の間に挟まっていました。
こうして僕は、易を立てる時間を含め、わずか3分で定期入れを探し出すことができました。今考え直してみても、よくこれだけの推理をする心の余裕があったものだと思います。
●易が当たるとき、当たらないとき
上の例などは恐ろしくよく当たった部類に入ると思いますが、当然ながら、当たらないと感じることも多いものです。
易がどういうときによく当たるのか。僕の感覚では、
・問題が具体的なこと。
・事態が差し迫っていること。ただし、冷静さを失っていないこと。
・ある程度の精神的、肉体的健康が必要なことは言うまでもない。
問題の具体性というのは、易に限ることではないでしょう。何事も具体的な問題ほど占いやすく、また回答も出しやすいものです。事態の緊急性というのは、それだけその事柄に対して神経を集中させているわけですから、雑念が入りにくくなります。最後の健康というのは容易に理解できるでしょう。
僕はポリシーとして、自分の努力にもかかわらず、その問題が明らかに自分の力を超えたと感じられたときに、易に頼ることにしています。それは、人間には論理的に問題を解決する能力があり、それを最大限に発揮することなくむやみに易を頼るのは、的中率を落とすだけでなく、易に対する礼を欠いていると考えるからです。
●最近の占断例
最近立てたある易について、お話しましょう。
僕はある週の金曜日に、会社に返送されてきた1台のPCB基板を修理していました。
システムバス(各回路がデジタルデータをやり取りするための経路)が機能していないのですが、CPU自体は働いているようなので、周辺回路に問題があるものと考え、ハンダ不良などを1つ1つあたっていったのですが原因がわかりません。
やがて日も暮れたころ、僕は行き詰まって、易に問いかけました。コインを6回投げると、本卦が「坤為地」、之卦が「艮為山」という結果が得られました。
僕はこのとき、この結果の意味がまったくわかりませんでした。
ところが土日を休んで月曜日に出勤したときに、ハタと次のような考えが浮かびました。
艮卦は、「艮為山」と言われるように山を意味するが、「艮」すなわち目前にあって固くて動かないものという意味から「門」というイメージもある。また、艮卦の形そのものが「門」という字とよく似ている。「艮為山」は、門が2つ並んだことから、「門の並び」という意味が出てくるのではないか?
「門の並び」を英語に直訳すると、まさに「ゲート・アレイ」のことに他ならない(「ゲート・アレイ」とは、デジタル回路をプログラムされた1個の集積回路のこと)。
すると、あらためて本卦を考えるに、「坤」は破壊された「門の並び」、すなわち壊れたゲートアレイを指していて、坤卦→艮卦という変化は、「壊れたゲートアレイを正常なゲートアレイに交換する作業」を指しているとは言えはしまいか。
現在、このゲートアレイは在庫が切れていて、発注している最中です。この推理が正しいかどうかは、もう少し先にならないとわかりません。
さあ、どのような結果になるでしょうか…。
(後日談)じつはゲートアレイそのものではなく、ゲートアレイとCPUを結ぶインタフェース部分の異常でした。まあ、ぴったりではありませんでしたが、ゲートアレイに着目したまでは正しかったといえます(笑)。
●最近の占断例2
最近会社で、打ち合わせに使う書類をなくしてしまい、焦ったことがありました。課内の書類ならば問題ないのですが、これは他の課からの回答書なので、作り直すわけにも行きません。
片端からファイルをひっくり返しても、どうしても見つけられません。そこで易に問い掛けたところ、本卦が「火雷噬嗑(ぜいごう)」、之卦が「火地晋」と出ました。
「過去の診断例」の項目を読み直していただくとわかりますが、このときは上爻が陰爻から陽爻に変化していて、書類の山のいちばん上から目的の定期券が見つかっています。ところが、今回はそれとはまったく逆で、初爻が陽爻から陰爻に変化しています。過去の例を敷衍すると、回答書は見つからないことになります。そのくせしかも「噬嗑」から「晋」ですから、結果は悪くないのです。
これをどう解釈すべきか。「晋」くらいの卦になると、事態は必ず(しかも、努力しなくても!)好転するはずと考え、僕は考えた末にその回答書が回ってきた課に連絡して、この書類をなくしてしまったのだがコピーをもらえないかと尋ねました。
すると、先方はよく調べた結果、「その回答書は存在しません、なぜなら、回答はメールで行なっているからです。」という回答をよこしました。なんと必死に探した書類は最初から存在しておらず、僕の記憶にあった書類は、同じ時期に発行された別の書類だったのです。恥ずかしいやら何やら、でも「書類なくして丸く収まる」という易の暗示はまさにその通りでした。
その後、打ち合わせも無事終了し、事無きを得ました。
●当たらなかった例
当たらなかった占断例もあります。結婚した年の年末、あろうことか僕は結婚指輪をなくしてしまいました。かみさんの指輪と若干模様が違うので、じつは他人のと紛れたのではないか、と冗談を言っていたりしたのですが、さすがになくしてしまうのは問題です。
さっそく易をたてました。結果は本卦が「水風井」、之卦が「雷火豊」と出ました。これから、次のように推論しました。
・井とは井戸であるから、水場にある。家の中なら洗面所、台所。
・目線より上にある。井卦は地下から湧き上がってくる水を示している。
・豊卦は日中を意味する。早く探し出さないと見つからなくなる。たとえば、排水口から流れ出してしまうといったことが考えられる。
そこで水場を重点的に探しましたが、結局見つけることができませんでした。早く探し出さなかったから見つからなくなったのかどうか定かではありませんが、占いは当たりませんでした。
未だにかみさんには、結婚指輪を作り直してほしいと言われます。
的中率を上げるには
●占いの的中率を上げるには
占う以上、その的中率を上げたいというのは、至極当然な要求です。外したくて占う人など、どこにもいないでしょう。では、どうしたら的中率を上げられるのか。これはなかなか難しい問題です。
最初に考えられるのは、占いをする環境を整えることです。とりわけ初心のうちは、心を平静に保ちリラックスできる環境が必要です。部屋を整理して不要なものや騒がしいものは除き、できれば香でも焚いてじっと座っていると、ふだんは思いもよらない新たな考えが浮かんで来たりします。
僕は、部屋の高いところに水晶球を置いています。家が狭いのでなんともしがたいですが、水晶球は太陽の昇る東に置くのがよいとされています。水晶に限らず、ラピスラズリ(瑠璃)などの宝石類を置くのはよい影響を与えます。このあたりは風水学に学ぶべきところかもしれません。
次に大事なのが、霊感を高める方法です。これは、自分一人では如何ともし難いです。霊感は高めようとして高められるものではありません。それこそ白装束を着て山中をさ迷い、滝に打たれ、時には熊と格闘しないと得られないのかもしれません。そんなこと、日常では不可能です。
僕は、毎晩のようにご先祖様に手を合わせています。仏壇がないので、台所で飲み物を供えて、今日一日の報告と、明日もよろしくお願いしますとお願いしています。神の領域のことはこの世のものではない者にお願いするしかありません。これで、たぶん少しは手助けしてもらえていることと思います。
最後に、たいへん大事でありながら見過ごされてしまっている注意点をお教えしましょう。それは、人間として高い境涯を目指すことです。私欲を去り、襟を正して、前向きに毎日を過ごすことです。これができれば占い云々以前に自然に運が向いてくることでしょうが、なかなかできません。
占いに感じること
ここで2つ3つ、占いに関して僕が感じていることを書きます。占いの一般常識とは外れた部分もあり、占いに疎い方にとってはむしろ意外に感じられることもあるかもしれません。
●占いは当たらなくて当然
これは別に、自己弁護をしているのではありません。当たらなくて当然というのは、いくつかのまったく異なるレベルの話を乱暴にまとめてこう表現しただけで、その詳細は次に述べます。
まずいちばん単純な例としては、占い自体の実効性が危うい場合です。「占い」と一括りにされるものの中には、ずいぶん信頼性が低くて、むしろ「おまじない」というに近いものがたくさんあります。かつて流行った「動物占い」などがそのいい例です。
たとえば、道を選ぶときに棒を倒したりコインを投げたりして決めるなんてのは、もう占いではないでしょう。妊婦さんの髪の毛の一方の端に五円玉を縛って垂らしたとき、激しく動けば男の子、あまり動かなければ女の子なんてのも、正直いって眉唾モノです。こういった類の「占い」は、たぶん本人も「まあ、外れても仕方ないか」程度の気持ちしか持っていないでしょうし、そういう意味ではあまり害のないものです。
あまり大きな声では言えませんが、個人的には姓名判断などもこの部類に入れてしまっていいのではないかと思っています。自分の子供の名前を決めるときにも、画数なんて考えもしませんでした。画数がいいからといって変な字や読みを当てられたりするほうがずっと後の人生にとってマイナスですよ、ほんと。
次の例として、占いの結果が雑すぎて、どのようにでも解釈できてしまうために当たらない、逆に占う側にしてみればどうにでも言い逃れできる場合です。雑誌や新聞の星占いなどがこの例に当てはまると考えます。
そもそも何十億という人間を10だか12だかに分けて「あなたの今月の運勢はこうです」というのに、どれだけ突っ込んだことが話せるでしょうか。具体的なことはほとんど盛り込めないでしょう。せいぜい「あなたは今月臨時収入が入る」と書くのが関の山で、誰からもらうのか、いくら入るのか、いつ入るのかなどについて一言書けば、翌月ブーイングの山が返ってくるのが目に見えています。「愛情運が絶好調」「引越しに吉」などというのも同様で、レベルの低い言葉です。
僕自身は、もし人間を分類して占うのであれば、最低でも1万通り、できれば100万通りに分けないと、占う対象となる人にとって少しでも役に立つことは言えないと思っています。つまり、複数の対象を分類することによって実効性のある結果を導くのは事実上不可能なのです。したがって、雑誌や新聞の星占いは無価値に等しく、もし星を使って占うのであれば、横着せずに西洋占星術や四柱推命、紫微斗数などの占いを使い、個人を詳細に見ていく以外に方法はないと考えます。
補足して言っておきますが、僕は分類することが無意味と言っているのではありません。分類した結果を使って占うことが無意味だと言っているのです。僕自身、おとめ座は男性は物腰が柔らかく女性は男勝りで現実的な人が多い、あるいはさそり座の人はとっぴな行動や周囲を驚かすような転職・転身をし、おひつじ座の人は年を取ってもなかなか子供っ気が抜けない、というようなことを肌で感じています。でも、それはそれだけのことで、それ以上のことについて何も回答を与えません。
最近はテレビでも「今日の運勢は何座が最高」なんてやってますが、これぞ愚の骨頂です。おまけにご丁寧に「今日は何座が最低です」なんてのまでやっているのには、開いた口が塞がりません。よくもこんなくだらないことを公共の電波を使って各局そろって放送しているものだと、呆れてしまいます。まあ、こんなものを信じる人はよもやいないと思いますが。
閑話休題。3番目の例としては、占うテーマの大きさ、1人占いの場合は占いに向き合う態度、占い師と質問者が別人の場合は占う側の能力の不足と占われる側の姿勢の問題、両者の信頼関係(ラポール)作りの難しさといったことが挙げられると思います。
占うテーマの大きさというのは、たとえばいきなり国際政治や経済の問題に取り組んで果たしてどれだけ当たるか、ということです。こういう問題は1つには占う者にとって距離がありすぎ、また1つには社会や経済という大きな有機体をどこまで細かく追えるか疑わしいものです。このようなテーマは外れても致し方ありません。
1人占いの場合は占いに向き合う態度が重要です。たとえば同じカード占いをする場合でも、襟を正して正座しながらめくった場合と、ポテトチップを食べながら寝転がってめくった場合とでは、たとえ同じカードが出たにしても、おそらく結果は違ってくるでしょう。占う状況によっては占う場所を確保できなかったり、騒がしい場所で行なわなければならないこともありますが、占いは真剣勝負と同じであり、最低限の礼儀は守ってほしいものです。
また、占い師と質問者が別人の場合は、両者はその場で相対していることが望ましく、離れている場合は能力のある人でないと厳しいでしょう。もっとも質問者が目の前にいると「まさかこのみすぼらしい人が大金持ちだなんて…」とか、「こんな身持ちの堅そうな人が道ならぬ恋をするはずがない」などと、逆の意識が働いて失敗することもあります。
1対1、つまり占い師と質問者が「さし」で占う場合は、占い師の能力が高いほど当たることは言うまでもありませんが、それと同様、時には以上に必要なのが、占い師と質問者の間の信頼関係です。たとえばデパートの一角の占いコーナに行き、水晶球を傍らに置いたおばさんと相対して「ああ、なんかあまり当たりそうにないなこの人」と思った瞬間、その占いの信頼性はガタ落ちとなります。もちろん能力の高い占い師ならばそのような思いにも負けず正確な結果を導き出しますが、並みの占い師ではダメで、むしろ信頼の置ける知り合いの占い愛好家に占ってもらった方がずっと当たるでしょう。
占い師と質問者の間の信頼関係というのは、非常に大切なことです。それは、激しく波立つ水面を静め、その下にある事実を見通しやすくしてくれるのです。質問者が動揺したり、さあ当ててみろとばかりに不遜な態度を取れば、水面は静まるどころかよけいに細かいさざ波を立てて、その下にあるものはますます見えなくなってしまうのです。
このように、占いを本当に的中させるためには、さまざまな要件を必要とします。
●本の解釈を信じてはいけない
占いの初心者が陥りがちな誤りですが、本の解釈を鵜呑みにするあまり、得られた結果を本と首っ引きで突き合わせてしまいがちです。占いの本には、結果に対する解釈が必ずといっていいほど書いてあります。この解釈は、その本の著者が長年の経験上そう解釈するようになった部分が多く含まれていますので、鵜呑みにするのは正しくありません。
司馬遼太郎さんだったか、「占いとは結局、インスピレーションだよ」というような言葉を残されたと聞きますが、まったく同感です。インスピレーションのいらない占いなどありえません。逆に霊感師のように、卓越したインスピレーションがあれば、何も小道具を使わなくても占うことができます。
占いの解釈は、一度は暗記する必要はあるでしょう。その道具の使い方すらわからなければ占うことは困難です。易で言えば、六十四卦の意味もわからずに占うことはできません。でも、エッセンスをつかんで、一通り自分のものになったと思ったら、後は忘れることです。そして、自らの解釈を創り出して行く、それこそが占いをするものにとって、もっとも必要なことなのです。
「自分は××の流派だ」などと言っているうちはヒヨッ子です。神の領域と自分との一対一の対峙であるはずの占いに、流派などというものはあり得ません。あなたが開祖その人です。
●占いは人を不幸にする!?
僕が占いに関して信じてやまないことの1つに、「占いは人を不幸にする」というのがあります。「本来は人を幸福にするはずの占いなのに、逆に不幸にするとはハテ面妖な」と思われる方がいらっしゃるかもしれません。
僕が言いたいのは、新聞や週刊誌の片隅に陣取っているお遊びの占いならともかく、自分から積極的に勉強し占断して行く行為には、常に運命を揺さぶられる危険が伴っているということなのです。
概して、名のある予言者や高名な占い師、優秀な霊感師や超能力者には、数奇な運命を送った者が少なくありません。たとえばノストラダムスは自らも防疫に努めたペストで最愛の妻と子を亡くしたうえ、本人の死に様もよくありません。日本の史上最高の易占家と言われる高島嘉右衛門も、思わぬ罪で何年も投獄され、その最中に妻を亡くしています。今世紀初頭のイギリスの秘密結社である薔薇十字団のマグレガー・マザース、アレイスター・クロウリー、アーサー・エドワード・ウェイト博士などは、みな悲惨な最後を遂げています。数年前に亡くなった霊能者の宜保愛子さんなども、兄を戦争で、弟を交通事故でなくし、ご本人も腎臓病で長患いされました。このような例は、洋の東西を問わず、まったく枚挙に暇がありません。
ではなぜ、このような人々に不幸が降りかかるのか。僕は、人知を超えた世界を垣間見る行為には、何らかの形で代償を要求されのだろうと考えています(逆のケースもありうると思います。たとえば事故で体の自由を失った人が念力を獲得した、という話もあります。人間の精神や肉体は、その何がしかを失うと、失った部分を別の形で補うように働きます。それがたまたま透視力や霊感である場合も、まれにはあるのでしょう)。
そもそも未来を知る、隠された真実を知る、などということは人間の能力の範疇にはなく、神の領域の問題であるはずです。本来が神の領域の問題を覗かせてもらうのですから、それには何か対価を要求されても不思議はありません。それが、本人や周囲の人々の幸福や健康、そして命だとしたら…。
大学4年生のとき、僕のいた研究室でこんな言葉がよく聞かれました。
「やべ、ツキ使っちまったよ」
「ツキためてんな~」
要は、何かいいことがあると「ツキを使った」、悪いことが起こると「ツキをためる」というらしいのです。個人個人で運の容器を持っていて、その中に「ツキ」がいくらかたまっていて、運がいいことが起こるとその中から「ツキ」が減っていき、逆に悪いことが起こると「ツキ」が増えるという考え方です。なんだか仏教のカルマと似たような考え方ですね。きっと運のいい人ほど、容器の容量が大きいのでしょう。
「ツキ」がこのような形で増えたり減ったりしているのかはわかりませんが、占うという行為には、この「ツキ」を予想以上に使ってしまう効果があるようです。しかも、自分の「ツキ」を使う前に、身内の「ツキ」を先に使ってしまったりと、とんでもないことをしでかしてくれます。このような意味から、あえて僕は占いは人(特に本人や身内)を不幸にする、という言葉を使いたいのです。
次のような方には、占いやオカルトの本格的な研究や実践は勧められません。
1) 身内に絶対に不幸をかけたくない方。
2) ごく近い身内に、妊婦や幼児、病人や障害者などの精神的・肉体的に弱い立場の人がいる方。
3) 金もうけ、他人や公共の福祉を害するなどの下心がある方。
まだまだあるかもしれません。いずれにせよ占うという行為には、代償を払うことになるかもしれないということを、肝に銘じておいていただきたいのです。この点からも、占いの乱用は避けるべきです。
●占いの結果はどこまで正しいのか
占いで出てきた結果は、どこまで信用すればいいのでしょうか。
占いが本当に当たっているかどうか、そんなことは実現してみないとわかりません。でも人間とは勝手なもので、その結果が自分にとって望ましいものならば実現してほしいと思うし、絶望的なものであればあるほど実現させたくないものです。
「占いは当たらなくて当然」の項でも書いたように、占いの信頼性は全体的に見た場合に決して高いものではありません。僕自身、結婚してからはかみさんに迷惑がかかるのが恐くて占いをぷっつり止めてしまいましたが、昔はいろいろな占いでずいぶん誤った結論を導いていたものでした。何年もやっていてさえこのザマ(いや、僕の場合には単に能力がないだけなのですが…)ですから、占いの研究や実践を始めたばかりの方がその結果に振り回されるのは、非常に気の毒に見えてしまいます。
僕の現在までの結論は、「占いの結果は、意志を持った人の前では、零に収束する」というものです。高校の数学を習った方ならこれで十分おわかりでしょうが、占いの結果というものは、確固たる意志の前では容易に萎縮して影響がなくなってしまうものなのです。逆に意志の弱い方には容易に取りついてその言動の自由を奪い、ついには人生をも吸い尽くしてしまいます。ほんとに占いというものは魔物ですね。
荘子に、こんな言葉があります。
「易をよく見るものは占わず」
独特のエスプリに富んだ彼の言葉ですから、僕などにはとうてい真意は計り知れませんが、僕自身はこの言葉を、およそ「森羅万象、ものごとに精通して、目の前で起こっていることに対してその知識を正しく運用し判断できる者にとっては、占いは無用の長物である」という意味に取っています。
よく調べたら、上の言葉は荀子の言葉でした。荘子が言ったのは「占わずして吉凶を知る」です。お詫びして訂正させていただきます。
何事にも通じることですが、占いとも上手に付き合いたいものです。そして、運勢を自力で開こうとする意志だけが、よりよい明日を作る糧になるということを、この文章を読んでいる皆さんにいま一度知っていただきたいのです。
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